昭和五十一年十一月三十日朝のご理解
                            松永享四郎

ご理解第八十八節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」


 これは、先日から頂きますご理解にあった様に、これは信心はなかっても、一般の云うなら、普通で云うておる事を、教祖様はこの様に理解しておられる訳ですけれども、只、悪い顔を見せんと云うだけでは、所謂、おかげに繋がらない、それで、家が治まると云うおかげになって来ない。
 どんな場合でも、人に悪い顔を見せんで済むだけの心を頂いて初めて、おかげを頂かれるのであり、所謂、黙っておっても、治まるのであり、道が開けるのです、所謂、今、合楽で云われる心行が愈々出来ておる時には、云わんでも済むし、それこそ、暑い寒いを云わんで済むし、不平不足も云わんで済むのです、心行に、もう小さい事でも心行に取り組むと云う以外にない。
 昨日、久留米の稲垣さんが、お届けをしとられましたが、この心行が始まって以来、大体は自分はろくそなか、それを心行、心にかけさして頂いて、例えば、女の働きの場であるところの、炊事場とか、又は、汚れ易い便所とかと云うところを、もう心を込めて、綺麗にさせて頂く様にさして頂いておる、洗濯物でも洗って放っからかして、もう洗ってその場でアイロン掛けて片付けんかと主人から云われます、けど、あんたんごとそげん云いなさったっちゃ、と云うて、やった事も無かった。
 もうこの頃はそれが、本当に有り難くしかも、今、高校に行きよります、此処に参って来よりますから、もう娘と二人で、そこを毎日毎日やらせて頂きましたら、家が見違える様になって、もうこの頃は主人が、もうあんまりキチッとなったり、片付いたりからでしょう、もうキョロキョロしてから、もうお前達を見直したと云わんばかりの姿勢態度でございますと、云うとります。
 もう、これならね、信心のない主人でもついて来ん筈はないですね、こりゃキチッとしたけんじゃないですよ、心行をしよるからなんですよね、本当に心行と云う事は人に伝わるですね、やはり、黙っておって治まるのです。
 悪い顔を人に見せぬ様にして家を治めよ、これが悪い顔をせんで済む心行をさして貰うて、なら家を治める、所謂、黙って治めると云う事です。
 昨日も、熊本の富永先生が、月末にお礼に必ず出て参ります、でこの頃は大祭の10日位前にでしたか、大祭のお礼に出て見えましたから、今月はだから、3回お参りになった訳です、この前のお参りの時に、ちょうど合楽で今云われとります、その合楽理念と云う事、その合楽理念に基づいて 、それこそ、為そうと思えば子供でも成せれると云う事をおろそかにして来ておった事を、判って、愈々合楽の信心が、完璧の域に入ったと云うご理解のあった日だったです。
 昨日、見えてから、あの事を頂いて帰りましてから、これは大変な事だなと、これは合楽だけではない、金光教の黎明を見る思いが致しました、と云うておられます、私もそう思いますですね。
 合楽理念の確立が出来て、そして云うなら、湯川先生の信心です、主人が神様なら、人間氏子は使用人だと云う頂き方、ね、そう云う行き方を身につけて行くと云う事、忠実な云わば使用人たらなければ、神様が給料も上げて下さらんだろう、これが、湯川先生の信心であった、だからもう、本当に仇やおろそかにはされなかった、私共が、例えば合楽の者が、例えば気が付かないところを、見事にやっておられる。
 勿論、先生の事ですから、起きて来る出来事一切を合掌して有り難く受けて行かれたと云った様な信心も、勿論なさった事であろうけれども、兎に角、主人が神様、吾れ使用人と云う考え方ですから、その主人の顔色ばかり伺うておられた、主人の思いに添う事ばかりを考えておられた。
 そこにはね、云うならば、今、合楽で行われとる心行ですね、云うなら、女の人が勝手をキチッとするとか、便所を綺麗にするとか、これも、只、キチッとするのじゃない、心行の伴った、云わば行動が、家の中は見違える様になっただけではない、もう主人が毎日会社から帰って来てから、キョロキョロとして、家の中を見回すばかり、もう本当にお前達は素晴らしい、素晴らしいと云わんばかりの態度であると、稲垣さんの云うてある様に伝わる訳です。
 只、キチッとするだけじゃないです、心の行が伴うとるから、伝わるのです、確かに今の、合楽理念の確立と、皆さんの場合は、確立と様々な理屈を並べんでも、何十年間合楽の理念と云うものは、どう云うもんか判っておいでられる、愈々成り行きを大事にせよ、全ての事に御の字をつけて行くと云った様な行き方を、云うならば何十年間稽古して来られた。
 そこを、一つの立脚点として所謂、火や水の行じゃない、それこそ、為そうと思えば子供にも成せる様な事をおろそかにして来ておった事を、成して行くと云う方にしぼらせて頂いたら、必ず黙って治める事が出来る、家は必ず治まって行く。
 昨日、一緒に必ず、月末御礼時には自動車で見えます、今度あちらの方にも快速道路が出来るそうですが、あれが出来る様になったら、一時間半で此処へ着くそうです、もう日参でも出来ると云うて、その事を喜んでおられましたが、その一緒に着いて来る方(池田さん)が昨日ここで一番始めにお届けさして貰ったのは、先日から、富永先生が帰られて、その自分の心の中に、これは大変な事だと、いわゆる、これは、金光教の黎明だと、この行き方、もう教祖のおん在られ方とか、所謂、いろいろにこう云われておりますよね、金光大神覚えとか、金光大神を修得するとか、もうそう云う事で、信心の勉強すると云う事は、有り難い事だけれども、それを、ギリギリ煎じ詰めると、云わば、合楽理念の確立と云う事になるのだ、そこに絶対の道が開けて来るんだと、教団全体がこう云う在り方に気付かせて頂く時に、云わば、金光教の云わば黎明だと云う事になる、だから、先ず合楽自体がそう云うおかげを表して行かねばならん訳であります。
 先日から、大きな信心と云う事を、寛大の寛と頂いとりましたよね、所謂、寛大な、だから、そう云う信心が実行出来ると云う事は、やはり心行です、ね、黙って治める、それを、もう少し云うと、死んだ気になると云う事です、もうこの、一番素晴らしい、大きな信心は、死んだ気でその事に取り組む事が大きな信心です。
 今朝から起きがけに頂いたんですけど、肩に肩章、胸に勲章、心に紋章、と云う事を頂きました、心眼に、昔の兵隊さんが、肩章をつけとりました、あの肩章を頂きました、だから、兵隊さん達が、云わば志願でもした人達は、もう兎に角、少しでも位が上がる事の為に、一生懸命なんです、金筋が1つ増える、星が1つ増える、2つ増えると、軍曹、曹長、准尉、少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将と云う様に、金筋が増え、星が1つ増えて行く事を、目当てに精進しますが、皆さんがね、信心の云わば段階と云うものがね、それが、信心が進んで行く事を、楽しみにせにゃいけんのです。
 今日、私は、いつも教典を上に置いとるですけども、誰か掃除されたからでしょう、これは、昔のご理解を手控えに控えておるご理解の雑記帳がある、それを、私があのう、教典と思うて、ここへ出したんです、そしたら、その昔の雑記帳でした、あら、この中から頂くとじゃろうかと思うて、開いて見たところが、こんなところを頂きました、もう何十年前に在る人が頂いた、これは尻取り言葉で頂いとるのです。
 振られたふの字のまんのよさ、振られたとか、断られたと云う事は、ああ、まんが悪か、と普通云うでしょうが、ところが、ここでは、振られた事が、おかげであったと云うとる訳ですね、振られたふの字のまんのよさ、先は判らぬ事ばかり、理屈を抜きに出直せ出直せ、せかれて来るのは遅すぎる、子守は女房にまかせとけ、けっこう道は開けるぞ、ぞうたんのごと、飛んで火に入る夏の虫、死んでからではいよいよ判らん。
 と云う尻取り文句です全部、しかし、これは、1つ1つ味合ったら素晴らしい事だと思いますね、日頃信心しとかなければ、日頃本気で心行させて貰うて、有り難き勿体無き、云うならば提灯持ち、有り難い勿体無きが先導して呉れる、一日でなからなければ、本当のおかげは、頂かれないと云う事なんです。
 それをせかれて来るではもう遅すぎる、家の事は女房に任せとけと云った様なね、その表現です、それでも結構道は開けると云うね、振られたふの字のまんのよさ、先は判らぬ事ばかり、理屈を抜きに出直せ出直せと、もう純粋な信心の世界です。
 心に辛い悲しいと思う時、鏡を立ててと、これは云うならば、心が平常でない、安心でない、喜びでない、そう云う時にはひとつ、ゆっくりご信心にでもやらせて頂いて、ご祈念でもさせて貰うて、そして、教えの鏡をひもとかせて頂いて、悪い顔を人に見せない、本当に家の主人はどこまで大きいか判らん、と云うならば、どう云う時でも、云うならば、にこやかにしておられる信心内容と云うものがね、ここでは求められておる訳です。
 この方の道は傘1本で開く事が出来る、これは八十九節です、心の中に安心、心の中に喜び、私は、今日ある方の事をお願いしよりましたら、まあ普通安心のおかげを頂いとると、まあ本当おかげ頂いてと云うておられますけど、私が、ご心眼に拝むのは、春雨と云う端唄がありますよね、もうそりゃあ素晴らしい、格好なね、春雨、あの扇を持って舞うのと、傘を持って舞うのと二通りあります、その舞踊用の傘をパッとすぼめた様にして持って、決まったところを頂きました。
 そりゃ、踊りの師匠、踊りの云うならば姿では、素晴らしい格好の良い姿ですから、けど、云うならば、信心がキザと云う、私は親先生にお願いしとりますけん、安心しとります、と、云うとるけど、それは本当の安心じゃないと、云う事なんです、だから、お互いがね、これは、私の場合であってもそうです、安心とか、度胸とか云うとりますけど、、実際は神様の目からご覧になれば、他愛もない事であろうけれども、そう云う自分を見極め見極め、より本当の安心が頂けれる信心、それには、日々の信心生活の中に、云うなら、この八十八節と云うのはね、いつも頂きます様に、拡がりに拡がって行く、ここが一つ頂けたら、繁盛間違いないと云うのです。
 それに、自分の辛い悲しいのを、人に見せる様な事では、辛抱して頑張っとると云うのではなくてです、それは、むしろ心行とは、暑い寒いを云うてはならんと、云われるのですから、暑い時はおかげで、稲作が見事に出来とる時だろうとお礼を申し上げる心、寒い時には、麦がいよいよしこって行きよる時だろうと、お礼を申し上げる心、暑い寒いで不平だんじゃない、お礼を云う心、辛い悲しいけれども、辛い悲しい時の実態、実際と云うものを思った時に、これはむしろお礼を申し上げねばならん事だ。
 それこそ、振られたふの字のまんの良さです、断られた、ああ残念と云う事でなくて、もう振られたその事が有り難いんだと、云う訳です、そう云う世界です、私は心行を抜きにしては、頂けないと思います。
 富永先生の云われる、云うならば金光教の黎明、まあそう大きく受けんなら、合楽教会の黎明、云うなら、皆さんのこれだと、これで行く以外にはないんだと、云われる時に、もしそれが秋山さんであるなら、秋山家の黎明であります、そして、そこに所謂心行の伴うた、今までやろうと思えば、子供でもなし得た事がそうです。
 云うならその、稲垣さんの言葉を借りるとです、もう本当に私は、主人から云われておっても、もうそげな事は出来んと、こういわゆるろくそなか、もう良か良かで通す訳ですけども、これを心行に取り組ませて頂いたら、させて貰わなければおられなくなった訳です。 昨日も、熊本から一緒について来た人が、手洗いに行った、そして、親先生から、所謂、富永先生から、10日余り、この合楽理念を、立脚点として、そして、子供でも為そうと思えば、成せる事をやっ行く、もうこれ以外ないばい、これ以外ないばいと、云うて10日間頂いて来た、そして、昨日こちらに来て、便所にやらせて頂いたら、便所の中のトイレットぺ-パ-がピシッと三角に折ってある、それこそ、ホテルか旅館に行ってある様な風に、綺麗にしてあるのを見て、もう便所の中で感動が湧いて、仕様がありませんでした。
 合楽の信心はこれだと思いましたと、云うて一番にその事をお礼申しました、不思議なんです、心行が伴うてそれがなされる時、先日、正義先生が云っておられます様に、お便所の云うならスリッパが2足置いてある、それをキチッと並べて寝んだ、翌る朝も一番口に起きながら、一番口に行ったら、誰も行ってなかったから、そのままキチッとスリッパが並んどった、途端に感動が湧いて来た、不思議な事です。
 その感動が一日を支配するのです、だから、キチッとせろじゃないです、もう本当にやろうと思えば子供でも出来よった様な、行き方と心行に、云わば神様は求めておられる、それが、云わば皆さんの家の黎明に成るとも云えるのです。
 成る程、そう云う心行が伴うとる時にです、辛い、悲しい、普通でなら思いをする思いであっても、それこそ、振られたふの字のまんの良さ、と云う頂き方が出来るのです、そう云う辛い、悲しい、顔せんでどころじゃない、それこそ有り難い顔をしておられるのです、そこに愈々寛大の寛の字の信心も出来ると同時にです、そう云う行き方を言葉を変えて云うと、所謂、死んだ気でと云う事になるのです。
 自分の肩の肩章を見て、私だんもう1つ星でよか、2つ星でよか、だけではいけん、もう愈々志願でもさせて貰うて、末は大将か、中将かと云う位な願いを持たせて頂くならば、やはり、肩の肩章を気にせん訳にはいけません、筋が1本づつ増えて行く、または、星が1つづつ増えて行くそう云う楽しくなる信心、それこそ、何年おきかに、勲章が貰える様な、胸に勲章です、心に紋章心行です。
 心にいつも、八つ波の紋章、所謂、金光様がいつも心の中に宿ってござる、そう云うしみじみとした信心を先頭に立てての日々でなからなければ、本当にならない、そう云う頂き方を、八十八節を、この文面からだけに頂くと、これは、信心のない者にでも、云うならば、教訓にしかなりません、普通で云う教訓では、云わば、おかげになりません。
 人の心に伝わらないです、その事がなされておる、心行を基にして、それがなされる時に、人に伝わるです、それこそ、黙って治まって行くです、その黙って治まって行くと云う事が素晴らしいです、そう云う行き方が身について来る時に、このご理解は、愈々、私共のおかげも、八十八節であって、愈々、拡がりに拡がって行くおかげが、約束される訳ですよね。      どうぞ。。/。